[北側思い出] 90年代咸興集団餓死の悪夢 (NK.CHOSUN.COM 04.07.29)

[北側思い出] 90年代咸興集団餓死の悪夢 (NK.CHOSUN.COM 04.07.29)

咸興で生まれなかったが1980年代後半から北朝鮮脱出前までずっと暮して来た第2の故郷だ.東海とハム主伐,大きい工場の密集した咸興はかつてから何ならない暮しやすい所だった.その所で開いたあっけない集団餓死の悪夢は今も忘れない.

北朝鮮の食糧難は1990年初から始まって金日成死亡と一緒に本格化された. 1994年北朝鮮の‘永生教主’の金日成が死ぬとあちこちで泣き泣き大騷ぎが起こった.空の呪いだったのかあいにくにもテマッツォ食糧配給も切られ始めた.咸興市は工場密集地域で大部分住民たちが配給に寄り掛かっていた.初めて1年間引き延ばしと中断を繰り返した配給所は覚束ない期待感で滞った配給だけでも受けるのを待ちこがれる住民たちでごった返した.

そのように1年が経って1995年が来た.直感的に不吉な気がし始めた.衣服財団技術があって人々の服を作ってくれてグングンヒ口に糊付けをして来たから高い市場米でも買って食うことができたが配給がてんから切られたら事情は変わるのだ.何か備えなければ微動もしないで飢え死にするしかないという恐ろしさがだしぬけに襲撃して来た.ないが違おうか1995年後半から配給がまったく切られたし滞った配給でも受けることで期待した住民たちの期待は絶望に変わっていた.

咸興役には税収もできなかった花くじたちが数十人ずつ群がって歩きまわりながら物乞いしていたし,ところどころ道街には飢えた年寄りたちがしおしおと横たわっていた.大量餓死が始まったのだ.この時から‘霊室’(栄養失調のズルイムマル)という単語が本格流行るようになった.軍服口は軍隊も例外ではなかった. ‘霊室だね’に‘栄養失調軍隊’までできたから言葉だ.

‘霊室’という単語のできたことは本格的な食糧難がやせがまん以前である1990年代チォブトで見当がつく. 1995年からは霊室に引き続き‘姜霊室’という新しい隠語が流行った. ‘強い栄養失調’にかかった人を指称する単語で広く通用した.

“友逹,姜霊室なのか?”という問う事は“強い(ひどい)栄養失調にかかったのか?”という質問の他の表現だった.たいてい食べることができなくて骨と皮になった,悽惨なモルゴ−ルで死ぬ事日報直前の人々をちょっとロマンチックに(?)それほど呼んだりした.

私はあの時人民班長をしていた.咸興市は他の地域に比べて反政府性向が講釈保衛部と保安書の統制が非常にひどかった.国家安全保衛部と人民保安書の指示を受ける人民班長は北朝鮮社会の底辺を守る番人だ.

私たち人民組は25世帯で約80人位になった.人民班長の任務は25世帯人々の一挙手一投足と正体が不明した人々の通い,投宿を見張って把握して随時に保衛部と保安書に報告するのだ.また唐依指示内容を速かに該当の住民たちに知らせる事も人民班長の重要な役目だった.の時に食糧難の時いくら多くの人々がどんなに暮してからどんなに死んだのかソサングヒ分かった.

私たち人民組25世帯の中オックススバブでも食べる家は5世帯に過ぎず,草根木皮で三食ズックモックは家が10世帯,二食やっとおゆ食べる家が5世帯,残りは死ぬ日だけ待つ家だった.私たちの人民組はそれさえも住むに値する町内だったから犠牲が少なかったがやすり紙区域と竜成句役みたいな一般労動者密集地域には多くの人々が飢え死にした.

1996年になると社会が殆ど無政府状態のように変わり始めた.ソングチォンガンググヨックの‘三日葬’,回想区域の‘坪数梅雨だ’,やすり紙区域‘やすり紙梅雨だ’,ドングフングサンググヨックの‘ハム主張’など咸興市内区域毎に市場には人波にあふれた.市場に行かなければならない食べることでも得ることができるからだ.そうしたら市場あちこちで花くじ,年寄り,暴れん坊,商人たちが一団となってお互いに戦って争って奪って踏み付ける阿鼻叫喚が起った.

あの時だけしても工産品商売は皆不法だったが暮らすためにする商売は必死的で毎日のように起る取り締まりにも全然縮まないで日増しに拡がって行った.

市場には3日に一度ずつ‘暴風’が降り注いだ.保安書の集中取り締まりを商人たちは‘暴風’と呼んだ.保安院が踏み倒されたと言えば商人たちは売った品物を隠して鼠野郎のように素早くどこかに隠れてしまった.尻が重い一部商人たちはつかまって品物を押収あって,上さんたちは鯨高という悪を書いて雑言をやっつけた.この前ようならば保安院に食って掛かるということは想像もできなかった.

‘暴風’は予定になしに起きた.特に保安で職員の中親還暦や幹部たちの会食がいる日で間違いなく‘暴風’が起きた.こんな日ならば住民たちも触覚を逆立てて骨を惜しんだ.結局権力機関が自分たちの必要によって市場を急襲して住民たちの物品を収奪するため‘暴風’を起こすのだった.

いつのまにか取り締まる保安で要員に‘お兄さんの時’というニックネームが付けられた.お兄さんの時は日帝時代を背景で北朝鮮映画に出る悪質日本巡使の名前だ.どんなに悪毒で人々が住む事が出来なくふるまったのか北朝鮮住民たち打ってお兄さんの時分からない人はいなかった.どんなにせっぱつまれば住民たちが取り締まり景観にお兄さんの時というニックネームを付けただろうか.

1996年春ある日朝咸興逆転に出て見たら6人の幼い子供達がノルブロジョいた.寝る子供達そうだったが近く家宝だから死んだ子供達だった.とても薄気味悪くて悽惨だった.戦地でもないのに道端に死んだ子供達がノルブロジョいるなんて….

いくらあらなく保安院たちが自動車を駆って現われた.ちょっと背が高くてヒムケやあったように見える花くじ何人に食べることをくれると約束してその子たちを車に積むようにした.子供達はまるで死んだけだものを触るように死体を自動車に投げつけた.あまりにもやつれていてやつれて青白くて人の死骸のように見えなかった.咸興市郊外坪数里という所に人々を埋める集団売場誌があった.そこにはいくら多くの子供達と老弱者たちが名前席子も残すことができずにつけてしまったのか分からない.

1997年になると食糧難が劇に達して阿鼻叫喚が別になかった.肥料工場では労動者たちが倉庫をはたいて盗んだ肥料を,機械工場では工場附属品と電動機などお金になることは皆取り離して売るのに忙しかった.このような掠奪が続くと公開処刑が一日がモルダするように起きた.あちこちで暮らすためにもだえる不本意ながら強盗になってしまった住民たちを死刑に処した.衝撃療法を使うのか一日は何人の住民たちを一竝びで立てておいて鉄砲で乱射する事まで起った.

こんな乱れて慌しい事が続く中に1997年春回想区域で子たちが親をおゆの猟奇的な事件まで発生した.祖母お婆さんは息子と娘二人の人を出嫁させて独身生活をする年寄りだった.食糧難で今すぐ飢え死にするようになるとお婆さんはいる財産を皆はたいて食べ物を調えて子たちを家と呼んだ.そしてから子たちを腹一杯墨ながら独身生活をしにくいと泣き言をしたが皆私の殺気忙しいお子さんたちが誰もお母さんの面倒を見ようと思わなかった.

絶望したお婆さんはせっかく君たちが来たが倉庫で育てる犬をザブアヤゲッダであり子たちに手伝ってくれることを頼んだ.倉庫中で犬首を結ぶはずだから君たちは外で綱を引っぱれば良いと言った.お婆さんが倉庫に入って行った後綱が外でほうり出されたし早く引きなさいというお婆さんの声が聞こえた.子たちはその綱を勢いよく引っぱった.それからはどんな反応がなかった.変だと思ったお子さんたちが倉庫に入って行って見たら彼らが引っぱった綱に首をかけていることは犬ではなくすぐ自分らのお母さんだった.この事件は当時咸興市に大きくうわさが広がったし長らく人々の口に上った.

こんな猟奇的な事件が起こると咸興市の民心はもっと乱れて慌しくなったしみんな本当に国がここでけりがつくようだした.あちこちで悪に捧げた人民たちの反抗まじた火だけが零れ落ちた. 1998年強化洞配給所で一女が配給所に出てから相変らず配給を与えないで“戦争だがきゅうっと起きてしまいなさい”孤高さを上げている途中保衛部に連行されて行方不明された.市場で“今は日帝時代よりもっとできない”と不平を言った年寄りが鬼も分からなく消えた. “一生配給を待っている途中頭がすべて白くなった”と一言したお婆さんは保衛部に引かれて行ってホンツルが出た.

“姑は塩素(塩素のようにたくさん食べる),お父さんはドエッバック(仕事はしないのにドエッバックままで食べる)”という言葉も流行された. 1997年から小頭と話頭が描かれたとうもろこし部隊が外国から入って来て市場で売れたりした.住民たちは安値に猫も杓子もこのとうもろこしを買って食ったが分かってみれば飼料用とうもろこしだった.この時から‘主体豚’という言葉がまた流行った. “外国史料を主体祖国人民が暮らす”は皮肉まじた言葉だった.

普段分かって過ごした人民保安書の幹部を通じて1994~1997年まで咸興でばかり5万人の住民が飢え死にしたという話を聞いた. 2.8ビナロン工場でばかり1000人の労動者が飢え死にしたと言ったらその家族まで合わせればいくら多くの人々が死んだのか見当をつけることができる.

食糧難初期には家とさりがに道具を皆売ってやっと延命したが1996~97年には彼さえ持ったことがない人々が微動もしないで飢え死にするしかなかった.

日本で加えてくれる親戚もいなくて生活力の弱い北送海外同胞たちが一番先に死に始めたし生真面目な学者たちと労動者たちが順に飢えにくたびれて倒れた.結果的に労動党が言うとおりに熱心に生きた人々はすべて飢え死にして唐依指示とは反対に商売をした人々は命を引き上げることができた.

攀竜山中腹金日成銅像周辺に咎めて顔付きなことは全部ポブアだふえる焚いたから公園が坊主山に変わった.トイレ門までトッオだふえる時門がまともに付いていることがトイレがなかった.

1999年らと阿鼻叫喚は強制で鎮まり始めた.飢える直前まで行った人民保安書と保衛部であり軍隊に穀食が供給され始めたしまったく崩れた社会システムも一つ二つ復元され始めた.この頃海外支援食糧がすごく入って来るといううわさが回った.人民たちにはUN視察団が過ぎ去れば与える真似だけ出している途中どこかに消えてしまったら多分権力集団で皆細いかと思った.

後に引き抜かれる支援物資たちが市場で大挙流通して‘コネ’を持った者等は莫大なお金を儲けていた.外部支援物資が多くなり始めると食糧価格も落ちたし最悪の1997年に比べると2000年代に立ち入るたくさんよくなった.

そうだとして飢えが消えたのではなかった.生存競争で淘汰された多くの人々がもうあの世に行ったからそれこそ‘毒種’らだけ生き残って生存を引き続いているのだ.これらは唐依指示を反対に履行した人々で,党を信じないで自ら生を開拓した人々だ.

このごろ北朝鮮が変化するとしきりに騷ぐのに現在北朝鮮の市場はもう1995年に活性化になって今までつながって来ているのだ.元はと言えば2002年の7.1措置と言うのも北朝鮮政府が体制維持のために市場の状況を事後ので認めたことに経たない.

どうして去る話を今するか聞き返す人々もいるはずだ.それはこちら南韓に来て見たら戦争よりもっと血なまぐさかった1990年代後半の北朝鮮現実をあまりにも分からないという事実に色を失ったからだ.距離に散らばった死骸たちと挫いて残った人々,阿鼻叫喚の1990年代は私たちの民族史で一番恥かしくて悽惨だった歴史の記録で残るはずだ.この北朝鮮版集団餓死の悪夢を書いても血を分けたうちの兄弟たちはまともに分からなければならないじゃないか?

同胞愛も民族哀悼皆好きだ.しかし数百万人民を餓死で追い払った金正日集団は我が民族も同胞でもないという事実を私たちの政府と国民ははっきり分かったら良いだろう.今も彼ら集団は人民を食べさせて活かすより一握りもならない自分らの権勢がもっと重要な人々だ.

(金栄順・67・戦咸興市ドングフングサングヨックウンフング1棟人民班長)

http://nk.chosun.com/news/news.html?ACT=detail&res_id=49496

[ ●北朝鮮の人権問題・脱北者 ] Posted by watch at 2004年07月30日 | コメント(0) | Trackback(0)



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