(国籍・「帰化」問題)敢えて暴論・雑談モードで(まこと)

「アフガン・イラク・北朝鮮と日本掲示板」の拙文を紹介。
http://8330.teacup.com/netkikaku2/bbs

ちょっと疲れているので法律論云々の「難しい」話は横において(おいおい)、暴論・雑談モードで書き飛ばしますが・・・。

国籍・「帰化」問題を巡る一連の議論についてですが、このグローバル社会の中で「法人」たる企業は多国籍展開が当然という時代に突入しているわけですが、かような状況は別に"未来社会のあるべきイデオロギーはうんたらかんたら"ということを背景にしているわけでは無く、ただ「如何にして効率良くカネを稼ぐか」=資本の運動という側面からの要請という極めて実利的路線から生まれているわけですが、なんで「自然人」たる人間は一国の国籍・公民権に縛られないとあかんかなー、と思ってしまいますね。

ぼんくらおじさんは「真性の日本人」という言葉を出されていますが、では「真性の日本人」って何?と私は首を傾げてしまいます。「近代国民国家」としての日本国の国籍を取得した以上、日本国民としての法的義務を負い、かつ日本に居を構える市民の一人として日本社会の道徳を守るべきだということを「国民」に要請するのは別に無茶な話では無いとは思いますが、ぼんくらおじさんは在日朝鮮民族が民族的アイデンティティに固着することにも違和感を表明している訳ですから、私には端的に「『日本人(というより日本民族)』への同化のススメ」であり、「朝鮮系日本人」と似て非なる概念だとしか思えません。

そもそも、例え大和民族(?)を両親に持ち、日本で生まれ育った日本国民の中にも日本国が心底嫌いな人もいるわけですし、「日本なんてダサクセー」と思っている連中もいるでしょう。また、私のように別に日本が嫌いでもダサい(死語)と思っているわけでは無いけど、頭の片隅では「何れは日本を脱出したいなー」という思いを抱きながら、「その時」の事を考えつつヒマ潰しついでに海外で小売業を開くためのリサーチもどきの事をしている奴がいれば、土門さんも名を挙げているペマ・ギャルポさんのように「この人、日本人の私よりも日本文化を深く調べ上げ、かつ心底日本という国家に愛着を抱いているんだなあー」と感心してしまう亡命チベタンもいる。

民族性や国民性が個々人のアイデンティティ形成において大きな役割を果たしていることは私も認めるけど、「在日朝鮮人は・・・」「日本人は・・・」と枠に嵌めて、それがアイデンティティの全てを決するかのような議論はナンセンスだと思いますねえ。「人生いろいろ、会社もいろいろ、民族もいろいろ、国民もいろいろ、人の考えいろいろ」じゃないですか?

ところで、いま日本に滞在している前ペルー大統領のアルベルト・フジモリ氏、彼は来日後に日本政府が彼の日本国籍性を認め(まあ私も法律上彼には日本国籍が認められると推定していますが)、事実上日本国内に「亡命」している訳ですが、彼の政策・業績に対する評価は人それぞれですが、彼がペルー当局の取り締まりの手を逃れるために日本国籍性を利用している面はあるにしても、少なくとも大統領時代に日本政府の間謀としてペルー共和国に対する「国家反逆」を働いたとか、そういう容疑で罪を問われているわけでも無い。

「在日」への国籍取得緩和要件を緩和して「コリア系日本人」として生きる道という路線に私は反対ではありませんが、むしろ私は「重国籍」を概念を受容した上で、永住あるいは長期居住する意思のある者には当該国の「市民権」(敢えて「市民権」と鍵括弧を付けている点に留意)を認めるという方向に舵を切るべきだと思います。例えば、日本国と韓国両国の国籍を生涯持つことを認めた上で、日本に永住する意思のある者には、参政権や公務員への就職を含め、一般の日本国民と同等の権利を認める、ということです。

こんな事を書くと、「重国籍者が非居住国の手先となって利敵行為を働いたらどうするんだ?」と指摘する方がいるでしょうけど、日本国を居住国として選択し、日本国民としての権利を行使している者は他の国の国民としての権利を主張することを禁ずる(サスペンドする)旨の法的規定を設け(要するに日本国民としての権利しか行使できない)、さらに公務員など公職に就いている者に関しては重国籍者が公務遂行中に他国の政府の意に追随した際には重罰を課す旨の規定を設ければ良い(一般の職務命令違反規定とは別に)のではないかと思います。

アルベルト・フジモリ氏にしても、彼の日本国籍性を認める立場を採るならば、彼はペルー大統領としての職務を遂行している時から既に「潜在的二重国籍者」だったということになります。日本に逃亡するまでの間に日本国民としての権利を主張したことは一度も無かったから(日本国民としての権利行使をサスペンドしていた状態)、日本の国籍法上も日本国籍性が認められる−こういう話ですね。

というか、なんで「近代国民国家」の「国民」概念という枠組みが今後も基本的には変更されないという前提の下で、われわれの生き様を論じないといけないんでしょうかねー。こんなの、そもそも二百二十年位前のフランス革命が産み出した「フィクション」に過ぎないわけで、日本という国がこの枠組みを採用したのは、わずか百三十年位前の話ですよ。

別に私は近代国民国家解体論者(アナキスト)では無いけれど、現在の「国民」「国籍(公民権)」なる概念のあり様そのものに疑念を向ける議論があってもいいんじゃないかと思いますけどねー。先述したように、企業が「時代の要請」で多国籍展開しているのならば、個人もこの時代、「多国籍展開」があってもいいんじゃないかな、と。

こういう立場からの論調を展開している方が誰一人とていなかったので、敢えて書いてみました。お疲れモードの中でコムズカシイ「論理」は無視して書き飛ばしていますので、「暴論」との非難は覚悟の上です(笑)。

(追記)

重国籍については以下の小論にアメリカの実情を含め、簡潔に纏められています。

*「二重国籍の権利」岡部一明(『地球号の危機』2001年3月)
http://www.gcnet.at/opinion/okabe.htm

また、アルベルト・フジモリ氏の国籍問題については田中宇氏のコラムが分かりやすいのではないかと思います。

*「フジモリと日本」 田中宇
http://tanakanews.com/b0827peru.htm


私は異民族に日本文化・民族性への「同化」を押し付ける意見や、全ての定住外国人に「帰化」を勧める意見、あるいは日本国籍を取得することが「朝鮮・韓民族アイデンティティの喪失」だと決め付ける見解、いずれも支持しません。各人の価値観に応じて多様な生き方が保証されるべきですし(もっとも「近代国民国家」の枠組みを採用している以上、日本国籍者と非日本国籍者の間に一定の格差が生じることは已む無しだが)、その為にも「重国籍」という概念を日本政府も社会も受容するべきだと考えます。

[ ●その他 ] Posted by watch at 2004年11月27日 | コメント(1) | Trackback(0)



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■ UNKNOWN
こういう、国家を相対化する視点は本当に大切だと思います。私の政治的立場は、今はむしろ国家の立場を強める必要があるというもので、まことさんとは異なりますが、同時に、こういう視点を保守・右派も側が失った時に本当に危険なことが起きるというのは抑えておかないといけませんね。

私がアメリカに観光で行った時、エンパイア・ステート・ビルのてっぺん近くの売店で初老の日本人女性が売り子をしてたんですよ。少し話しましたら、彼女は20代からもう20年以上、アメリカ、ヨーロッパを、少しづつ働きながら生活しているんですね、もう少しお金が溜まったら今度はギリシャに行く、わが人生、好きに生きてきて悔いなしですよ、と笑っていました。私はこういう生き方を決してバカにはしません。彼女の表情とかには明らかに疲労の色も見られ、色々と辛い事もあるのかも知れませんが、『悔いなし』と言い切るのは素晴らしい。



ただ、どうなんでしょう、高々130年の近代国家、といってしまうと、今度は高々130年の人権思想や民主主義制度であり、それを普遍化することは傲慢であり、近代化の名の下での地域の伝統破壊はけしからん、といった、確かに一見正論ではあるけど、逆に専制支配やテロを肯定する言説に利用される可能性もありますよね。今、良心的な人権運動の人が悩んでいるテーマの一つはそれだと思うんです。



まあ、私は右翼として、前近代的価値や民族文化というのはやはり近代化の中でも守られるべきだと考えます、同時に、ある程度の近代化、民主化、グローバル化は普遍的に民衆を豊かにし、幸福につなげるので不可避だとも思う。国家主権なくして人権は守れないとも思うし、そこでは国籍問題などはかなり慎重であるべきと思う。しかし同時に、国家主権なくして人権は守れないけれども、逆に国家が人権を抑圧するシステムや近代が前近代的伝統を破壊する事にどのレベルで歯止めが駆けられるかを考えないといけないんですね。そういう緊張感が今右、保守の側から失われてはいけないと思い、まことさんの投稿に色々と考える所があってコメントしました
三浦小太郎  (2005-01-03 10:47:27)

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